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オープニング

静かな森。
その森の奥に、人を助ける館が在るという。
その館は、道に迷った人の心も迷い道から抜けさせてくれるのだと言う。
穏やかな女主人が、迷い人に手を差し出すのだと。

夜の鳥が羽音を立てて、飛び去る。
随分と歩いた。そろそろ陽が落ちる。

館から帰った人の話では、そう遠くない場所に在るはずなのだが…。

少し肌寒い。
僅かに身を竦めると、来た道を振り返る。

……。
一度、館から出て、再びその館を目指した者は少なくない。
けれども、二度とその館を見つける事が出来なかったという。

森の中は、夜が来るのが早い。
茜色した残照を、僅かに目の端に留めたかと思えば、すぐに、薄闇がやって来て。

……。
町からそう遠くない、森の中にある、その館を一目見ようと、森へと分け入ったは良いが…。

…迷ったかもしれない。

嘘だろうと、呟く。

まだ、夜は冷える。


引き返そうと、この道だと確信を持って戻るのだが、目にするのは、同じような木々。
夜の蒼さに目が慣れてくれば、蒼と白と、漆黒の影が、静かに森を彩るだけで。

走り出したい気持ちを抑え
一歩、また一歩と先を行く。

とりあえず、野宿にしろ、夜露を防ぐ場所を探さないといけない。

覚悟を決めて、森を見回した。───すると。


灯り…。

先ほどまでは、ちらっとも見えなかった、暖かい火の光が見えた。




あれは…もしや。

在るとも無いともはっきりしないと言われる館の話。
在るのなら、見てやろうとやって来て…。

半信半疑だったその館が、目の前に在る。
古びた洋館が、穏やかに暖かい光りを窓からこぼして、そこに在る。
随分と歩いた森を思い返す。地図を見ても、そう深い森では無かったはずなのに。

よし。

心は決まっている。
館を見つけたら、その扉を叩くのだと。

深呼吸して、その大きな扉を叩いた。

トントン。

ざわざわっという、気配が館の中を動いたのを感じる。
もう一度、ノックしてみる。
トントン。

心臓の鼓動が跳ね上がる。
誰が出てくるのだろう。ここは、本当に噂の館なのだろうか。

トントン。

逸る気持ちが、僅かに力を込めて、また、扉を叩かせた。

軽い開閉音がすると、大きな扉はゆっくりと開いた。



眩しい。



夜の暗さに慣れた目に、シャンデリアの灯りがキラキラと飛び込んだ。

「いらっしゃいませ」

微笑み立つのは、噂通りの美しい女主人だった。
じっと覗き込まれるその深い森の碧を映した瞳は、自分の浅い好奇心を見透かしているかのようで、何となく、下を向く。
「…迷われたのですね?」

そう、最初は好奇心だったのだけれど、今は確かに迷子だ。優しい声に顔を上げると、女主人はまた、笑みを浮かべた。
その笑みを見たら、自分のとった行動が、酷く馬鹿らしく思えた。
噂を聞き、浅慮から、物見遊山のような行動をとって、森へと入った事を、素直に告げる。

「ふふふ。そんな噂が立っているのですか。[l]でも、この館を見つけられたのも、何かの縁でしょう。どうぞ、泊まって行って下さいな」

縁の無い方は、見つけようにも見つけられないはずですからと、館に招き入れられた。

エントランスは、古びてはいるが、良く手入れされた絨毯に、磨き上げられた階段。埃一つ無いシャンデリア。
思わず見とれて立ち止まる。

辿り着いて…しまったのだ…。本当に…。


そうだ。せっかく、ここに辿り着いたのだから、館に滞在する、人々に会いたい。
館を探そうと思ったきっかけを思い出し、女主人に、他の人は?と問えば。

「まずは、お食事に致しましょう?夜はまだ始まったばかりです。それに、あまり早く訪問しては、何方もお見えになりません」






何か、言葉に違和感を感じたが、夜も更けてくれば、必ず会えるからと言われて、頷いた。
現実感の沸かない空間と、美しい女主人に、ぼうっとなりながらも、鳴き出す腹の虫を押さえる為、軽い食事を共にすれば、夜は次第に更けて行く。

「どうぞ。お部屋はこちらです」

女主人のドレスが、衣擦れの音を耳に心地良く立てて行く。
この一晩に、何があるのだろう。
自分は、とんでもない間違いを犯したのではないだろうか。それともこれは、彼女の言うような、縁なのだろうか。

ぼんやりと、彼女の後について行けば、部屋の前で、ふと、思いついたように彼女は手を口に当てた。


「あら、私とした事が。名前を言いませんでしたわね」

名前。

そういえば、彼女の名前が思い出せないのも、噂の真偽を曖昧なものにしていたのを思い出す。

「私は美里。美里と呼んで下さいね?」





───美里…。







覚えていようと、口の中で繰り返す。


どうぞと、通された部屋は、アンティークな家具で溢れかえっていた。
趣味の良い風景画、磨き上げられたサイドテーブルには、セピアに染まった色硝子が色とりどりの花を映して淡く室内を照らす。
金で縁取りをした青い蔦模様のティーセットは、誰が何時用意したのか、仄かに暖かい。
バスケットにはラッピングしたクッキーが入っている。赤いリボンが可愛らしい。
ふかふかのベッドに腰を下ろすと、美里が微笑んだ。

「こちらの部屋をご自由に使っていただいて構いませんし…」

そう、言葉を途切れさすと、くすりと、意味ありげに笑われた。

「館の中も自由に見て回っていただいて構いません。あまり遅くまで出歩かないようにして下さいね」


はい。と、返事をする。





思い出される最大の噂話。その館には、沢山の宿泊客が居る。その宿泊客に会って、話を聞けば…。


聞けば…。


何だっただろうか。靄のかかったような記憶を手繰る。
そんな心の内を知ってか知らずか、美里が、ごゆっくりと声をかけてくれた。

「では、良い夜を」

ふかり。

ベッドの柔らかさが、妙に眠気を誘った。


まだ…眠くは無いのに…まだ…。


不意に襲われた睡魔に抗えず、暖かな部屋のベッドに、落ちるように眠りについた。
オープニング文章:いずみ風花
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